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感じる存在感
松山ケンイチ/チョンジフン(Rain(ピ))2人の若き才能ある俳優/歌手を応援しています
こうして大人になっていく
2011.3.9記述
キネマ旬報 No.1571より

キネマ旬報no1571001



「ワタナベはこの物語の中で大恋愛を経験する。だからキミも、この作品で大恋愛を経験することになるんだよ」
『ノルウェイの森』の撮影に入る前、トラン・アン・ユン監督が松山ケンイチに言った言葉である。
だが、そんな監督の予言めいた言葉が何を意味するのか、このときの松山にはよく分からなかった。
それよりも、彼の頭の中にはある"覚悟"でいっぱいだった。他のことを考える余裕もないほどに。





--考えてみれば本格的なセックスシーンは、松山にとって初めてなのである

だから覚悟を、と思っていたんですが、この物語にとってのセックスシーンとは、動きがどうのということ以前に、シーンごとに違う深い意味を含む大切な場面なんだなと、トランと話すうちに理解していったんです。

例えば、ワタナベと直子のセックスというのは、ワタナベからすれば直子を愛するきっかけとなった出来事であるし、直子からすれば不安定だった精神が決定的に崩れていくきっかけだったわけですよね。つまり、そこからこの物語が始まっていくともいえる、とても重要なシーンなんです。

直子とのシーンで、トランがすごくこだわったのは、オーガズムに達したときの直子の声でした。
ここは原作でもすご大事な部分だったと思うんですけど、あの叫ぶような声は、そのシーンでの唯一の音だったし、同時に直子の中の何かが崩れる音でもあったと思うんですよ。だから監督は、その声を重視していて、僕も、そんな直子を必死で"受けよう"としているワタナベであることに、それこそ必死でしたね。

--相手が発する物を受けること…。このシーンに限らず全篇を通して、ただそれだけを意識しながら"ワタナベとして、居た"のだと、松山は言う。そんな常に受け身であったワタナベは、直子への愛とその喪失を経験した末に、物語の最後で、再び、ある重要なセックスを通過することになる。

ワタナベにとってそれは、緑の元に行くことを自分の意思で決めるための、つまり自分の足でちゃんと歩いて行くためのセックスだったんですよね。…というように、今はこうやって喋れますけど、映画を撮ってるときは、わからなかった。

僕もまだワタナベと同じで空っぽというか、恋愛観とか人生観だとか形成されていなかった状態だったんだと思います。でも、完成したものを見て、自分がこの映画を通して何を経験してどう変わったのかを知ったんです。

そしてトランに最初に言われたことのその意味も。

--"その意味"とは?と聞き直したのに対し、松山は、これまでに聞いたことのない、揺らぎがいっさい感じられない語調で言うのだった。

それは、こうして大人になっていくんだ、ということです。


撮影中は僕自身、大人になる直前の時期だったような気がするんですよ。
実際まだ大人じゃなかったからこそ、この役に選んでもらえたんだろうし、空っぽの状態から大人の扉を開けるまでのワタナベを演じることで、それをそのまま追体験していけたんだとも思うんです。

これまであった僕の中の不安定さを、いい意味で切り取ってもらえたなと、今、すごく感じています。
だからきっと、これ以降の映画では、もうそれ(不安定さ)はないです。見納めです。

--そこに一抹の寂しさを感じないでもない、のも事実。これまでの松山の、その魅力の底にあるものとは、まさに"大人になる直前の者だけが持ち得る何か"だったのではないかと思うから。しかし人はいつかは大人にならなくてはいけない。であれば、その瞬間をスクリーンで目撃できることの幸運を、私たちは喜ぶべきなのだろう。

作品の中でワタナベは直子やレイコ以外にもナンパした女性とセックスをするけれどそれぞれ本当に会話や表情も違いますからね。誕生日の直子とのセックスシーンは本当にワタナベにとっても色んな意味で複雑な思いがたくさんあったと思います。もしあの時ワタナベが直子にあの一言を聞かなければひょっとすると2人の関係も違ったかもしれないし、ひょっとすると直子があんな風に壊れて行くこともなかったかもしれない、そういう2人の喜こびと混乱と悲しみが込められたシーンでしたし、だからと言って決して美化するわけでもない小説の中に書かれている「最後には直子は僕の体をしっかり抱きしめ
て声をあげた。僕がそれまで聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声だった」がスクリーンを通して表現されたシーンでした。

確かにワタナベは直子が好きでいながら緑に惹かれそしてその間に永沢と一緒に女性をナンパして一夜を共にするけれど、でも決して単純に女性好きという人ではなくて緑に対してはすごく自分を律しているというか緑を大切にしようとしているそれは直子に対する罪悪感なのかそれとも本気に愛そうとする人に対して臆病なのかそれはわからない。それが最後レイコとのセックスで解放される。決して快楽の為のセックスではなく、お互い悲しくもそれを乗り越えて行こうとする者たちの行為なんですよね。

大人になった。ファンとしても嬉しいよううでもあり記者と同じように寂しいようでもあります。
でも、そのきらめき輝きもがき苦しむ姿を永遠にスクリーンの中にワタナベとして生き続けて行く限り私たちはこれからも「ノルウェイの森」を見るたびにその一瞬を愛でることが出来ると思うと幸せなのかもしれないです。

そしてすこしずつ大人になっていく松山ケンイチの姿を色んなスクリーンを通して愛でて行きたい。
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