感じる存在感
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2011.11.10記述
ZAKZAKより

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 「ライバルをどう捉えるか」-。経営者の大事な判断の一つです。連携相手とみなすか、潰す相手とみなすか、明確に峻別しなければなりません。連携相手なら協定を結んでライバルの強みをたくさん取り込むようにし、潰す相手なら競合商品を出したり訴訟を仕掛けるなど、徹底的にたたきのめす必要があるからです。

 この点、平清盛の判断は非常にハッキリしたものでした。当時、清盛が目指す重商主義的な経済成長路線に対し、ライバルとなりうる勢力は2つありました。

 一つは、金の産地として有名な東北の「奥州藤原氏」です。清盛は、奥州藤原氏に対しては官位を贈るなどして、取り込みを図っています。

 そしてもう一つは、南九州に勢力を誇った薩摩平氏の「阿多氏」でした。阿多氏が支配する薩南諸島・鬼界ケ島からは、硫黄が出ました。硫黄は火薬の原料となることから輸出品として大変重要で、貿易相手の中国(宋)はのどから手が出るほど欲しがりました。

 さて、奥州藤原氏と同様、朝廷の支配から離れた独自勢力として一地方を支配した阿多氏ですが、その存在は歴史ファンにもあまり知られていません。その理由は、清盛に「潰す相手」とみなされたからです1150年代に総領・阿多忠景が南九州に覇を唱えたものの、10年後には清盛の重臣・平家貞により倒されています(阿多忠景の乱)。

 金と硫黄、それぞれ貴重な資源を有する両勢力。なぜ清盛は、奥州藤原氏とは連携する一方で、阿多氏は容赦なく潰したのでしょうか? それは、「将来のリスク」を排除するためです。

 大陸との貿易に有効な港を有していなかった奥州藤原氏に対し、阿多氏は、「万之瀬(まのせ)河口」という貿易港を持っていました。薩摩半島南部、東シナ海に面する万之瀬川の河口付近は古くからの自然港です。最近の調査では中国製の陶磁器が発見され「1150年頃から中国との貿易が盛んになった」とみられています。

 これに対し、1158年に大宰大弐となり博多港を押さえた平清盛は、「万之瀬河口はいずれ博多港の地位を脅かしかねない」と考えます。

 万之瀬河口は、博多港に比べ規模は小さいものの、宋の貿易港・寧波からより近い場所に位置していました。そのため清盛は、リスクを敏感に察知したのでしょう。

 「将来のリスクが低い者とは協調して利益を得、高い者は討伐して利益を得る」-。清盛は現在だけでなく「将来」を見極めることで、ライバルを峻別しました。そうして得た利益である金・硫黄を使って日宋貿易をさらに拡大し、中国の産物を大量輸入することに成功するのです。

 ◇  ◆  ◇

 鹿児島県民にもあまり知られていない、万之瀬河口の阿多氏。

 阿多忠景(ただかげ)の乱の後、彼らは平家の勢力下に入ります。歌人として有名な清盛の末弟・平忠度(ただのり)が薩摩守になるのも、この流れです。

 そして平家滅亡後、薩摩・大隅・日向の守護としてやってきたのが、惟宗氏です。

 のちに島津氏と呼ばれるこの一族-その中で万之瀬河口を本拠地とした相州家島津家出身の島津貴久が、戦国時代に薩摩を統一します。さらにその息子の「鬼島津」島津義弘らが九州を席巻。以後300年間にわたって、中央とは一線を画した南九州独自の勢力を築きます。

 彼らが貿易港・万之瀬河口で培った国際感覚はDNAに刷り込まれ、のちの明治維新の原動力となるのです。

 

山田真哉(やまだ・しんや) 1976年神戸市生まれ。大阪大学文学部日本史専攻卒。受験予備校に就職するが退職し、その後、公認会計士・税理士に。会計学を身近な話題から探究する『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(光文社新書)が160万部を超える大ヒット。会計ミステリー小説『女子大生会計士の事件簿』もシリーズ100万部を突破した。12月には平清盛本を出版予定。



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