感じる存在感
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7/27(金)午後10:00~ツイッターにて東大教授・本郷先生による源平決戦に向けた第3部の予習を兼ねた講義が開催 されました。

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【スタッフです】
今夜の本郷先生特別講義は、全6時限で開講します。
1時限ごとに1つのテーマを、大体3ツイートで解説。
その後、質疑応答を受けて次の時限へと進みます。
1時限は15分、終了時刻は11時30分を予定しています!

【スタッフです】
本日の本郷先生特別講義、
「清盛の出生とキャリア」
「永遠のライバル・義朝」
「保元の乱」
「清盛の友・信西」
「平治の乱」
「清盛と交易」
の全6テーマを予定しています。それぞれについて3~4ツイートでズバリと解説します!

一応まとめましたが、なにに対しての質問か分からないものに関しては勝手に当てはめているので間違っているかもしれませんがご了承くださいませ<(_ _)>

「清盛の出生とキャリア」


「清盛の出生とキャリア」その1。
白河上皇落胤説。清盛は白河上皇のご落胤であるという説が研究者の間でも支持されています。それを貴族たちは知っていたので、彼の昇進はとても早かったというのです。

Q:清盛が白河院の子説の1番信憑性がありそうな史料はなんですか?
A:平家物語と系図がありますが、十分な資料とは言えません。 

Q:もし清盛が白河院のご落胤ではないとすると、先生ならなぜあれほど昇進出来たと考えますか?
A:清盛の武力が突出していたからだと思います。

「清盛の出生とキャリア」その2。
清盛はおぼっちゃま?。ドラマの中では「俺は誰なんだー」と悩みまくる清盛ですが、史実ではどうも相当なおぼっちゃまだったらしい。豊かな家庭でしっかり教養を身につけていた?

Q:おぼっちゃまとのことですが、無頼の高平太と呼ばれたやんちゃ時代があったのは史実ですか?
A:きっと金持ちの不良だったんでしょう。 

Q:平家納経見ると、みんな字がきれいで上手いんじゃが。
A:平家は練習してたと思います。関東の武士はたぶんやってないでしょう。

「清盛の出生とキャリア」その3。
清盛が歴任した国司って? 清盛は安芸守や播磨守を歴任しますが、瀬戸内海に面した豊かな国ばかり。平氏はしっかり財を蓄えるとともに、水軍の編成も進めていきます。

Q: 国司に序列といいますか、この国任されたら認められたようなものだ、みたいなものはあるんでしょうか?
A:播磨が最上国というのはわかります。

「永遠のライバル・義朝」


それではテーマ2に入ります。テーマは「清盛のライバル義朝」です。その1
「平氏に対して劣勢の源氏」。武士の棟梁として名が出たのは源氏が先。藤原摂関家と結びつきます。ところが院政を進める上皇は平氏の方を重く用います。

Q:ドラマ中で源氏の人達が何度も「八幡太郎義家が~」と言っていましたが、どんな人なんですか?
A:義朝のひいじいちゃんです。源氏のヒーローです。

Q:義朝は為義と不仲だったという説は本当なのでしょうか??
A:僕はそうとは思ってないんです、実は。

「清盛のライバル義朝」その2「二人の対決は競べ馬?」。武士の技術は弓矢と馬術。どの武士もこの二つの技能をしっかり修練しました。だから若き清盛と義朝の対決は騎馬でのレースなのです。

Q:「武士の技術は弓矢と馬術」とのこと。では、ドラマの中で父から「刀剣」を受け継ぐことに結構重い意味があるような描写がありましたが、整合性はいかに?
A:刀剣が実用品というより美術品でもあったから。


「清盛のライバル義朝」その3
「関東で暴れた義朝」。京都では平氏に負ける、と感じた義朝は東国に活路を見出します。三浦半島や上総を従え、勢力を盛り返す源氏。彼の努力は頼朝に受け継がれます。

Q:この頃の関東ってほんとにドラマ内みたいなサバイバル状態だったんですか?そうだと思います。
A:リアル北斗の拳。ただし、ケンシロウ抜き!

Q:この頃の東国はどれくらい開けていたのでしょうか?人口や農地など…。
A:東京23区は農地としては使いものになりませんでした。海抜が低くて水が出るためです。


「保元の乱」


さて、テーマ3は「保元の乱」です。その1
「崇徳上皇と後白河天皇」。鳥羽法皇に愛されなかった崇徳上皇。天皇家の本流の座を巡って、同母弟の後白河天皇と争います。ただ崇徳上皇には実は白河上皇の落胤との噂も。。

「保元の乱」その2
「藤原頼長という人物」。藤原摂関家の歴代の中でも抜群の才能を誇った、それが頼長でした。父の忠実は彼に藤原本家の命運を委ねようとしたのですが・・・。

「保元の乱」その3「平氏と源氏、それぞれの戦い」。
平氏では叔父の忠正が、源氏では父の為義よ弟たちが崇徳上皇方につき、後白河天皇方の清盛義・義朝と戦います。肉親が敵味方になったのです。

Q:保元の乱の為義は数え60と当時としては超く高齢でした。ドラマではあまり強そうではなかったですが実際の戦いぶりはどうったのでしょうか
A:史実の為義は強かったはず。マッチョじじいではなかったでしょうか。

「清盛の友・信西」


それではテーマ4「清盛の友、信西」に入ります。その1
「優れた知性と身分の低い家柄」。信西は法律・歴史に通じ、数の計算も得意。何でもアリの彼ですが、アキレス腱は低い家柄。悲観した彼は出家してしてしまうのですが。。。

Q:出家すると、低い家柄を多少カバーすることになるのですか?家格があがるわけでもないでしょうが。個人的に何かレベルアップするのでしょうか?
A:フリーな立場を手に入れ、上皇のそばにいられたのです。

Q:義清と信西って同じ出家でも種類が違うんでしょうか?
A:義清は遁世と言います。俗世と縁を切ること。信西は普通の出家。世塵にまみれています。


「清盛の友、信西」その2
「彼が目指した国のかたちは?」。天皇を中心として、法にのっとった国家。みんなで税を負担し、それを効率的に使う。乱暴な僧兵を取り締まり、平和な日常を取り戻す。でも彼の身分がまたもや障害に。
 
 
Q:この場合の法律って、なんですか?
A:律令とその適用例集です。

Q:汚い話ですみません…当時、今で言う「トイレ」はあったのでしょうか?特に貴族の女性は一苦労だと思うのですが…
A:小川で洗うトイレはありました。たけべらで拭くのが多かったです。

「清盛の友、信西」その3
「信西と清盛」。高い官職の貴族たちを納得させることのできない信西の支えとなったのは強大な軍事力を持つ清盛でした。信西と清盛の二人三脚が始まります。

「平治の乱」

テーマ5は「平治の乱」です。その1
「信西の政敵たち」。当時、朝廷では後白河上皇派と二条天皇派の貴族たちが勢力争いを繰り広げていましたが、信西を倒す、という一点で両者は協力します。

「平治の乱」その2
「義朝の立場」。父と兄弟たちを犠牲にしながら、義朝への恩賞は満足のいくものではなかった。義朝はそこで、信西打倒の企てに身を投じていきます。それは清盛と対決する道でもありました。

Q:左馬頭は実はいい役職だったという説が今はけっこう有名?なようですが、このドラマであえて昔からの説を取ったのは何か理由があるんですか?
A:乱中の除目でわざわざ義朝が播磨守になってますので。 

Q: 源平以外の武士は平氏の台頭をどうみてたのでしょう?
A:恩こそ主(大庭景親)という言葉があるように、当時の武士は結構ドライでした。平家が恩を与えてくれれば、喜んで従ったでしょう。

平治の乱」その3
「平氏対源氏」。京都での戦闘は、「都の武士」である平氏に分がありました。圧倒的な物量で押し寄せる平氏軍の前に、源氏軍は崩壊していきます。義朝は東国に走ろうとしますが・・・。

Q:義朝は東国へ無事落ち延びられたとして再起を図るだけの力は東国にあったんでしょうか?
A:東国武士が朝廷の命令を遵守するかどうかが問題です。僕はどちらの可能性もあったと思います。

Q:義朝の死について、入浴中に殺されたはずですが、ドラマでは自害しました。史実として、自害の説もあるのでしょうか?
A:「平治物語」と「愚管抄」の二説があります。玉木さんの入浴シーンが見られず誠に残念でした。

Q:頼朝が迷子になった本当の理由を教えて下さい!
A:大便をしていた、というのが僕の説です。(みんなの白い冷たい目)

Q:配流先での生活はどんなだったの?身分によって現地での扱いは違うのですか?
A:身分によって違います。出雲に行った時忠などはのんびりしていたみたいです。

Q:頼朝殿は、征夷大将軍となりますが、この役職が武家のトップとして認識されるのはいつからですか?
A:最近発見された資料により、頼朝すら「大将軍」になるつもりだったことが明らかになりました。ですから、頼朝の代からです。

Q:坂上田村麻呂の時代には、征夷大将軍は蝦夷討伐軍の大将ですが、それがどうして武家の頭領を表すようになったのですか?
A:貴族の皆さんが縁起がいいと言うので、頼朝に与えたのです。

「清盛と交易」


いよいよ最後のテーマです。テーマ6「そして清盛と交易」。その1
「平氏と交易」。両国の国司を歴任していた平氏は、早くから交易が生み出す利益に注目していました。物資を早く大量に運べる海。清盛は海を最大限に利用しようと決意します。

Q:国司となった縁で福原に京をと考え貿易の拠点にしようとしたのですか?それとも、別に理由があったのでしょうか?
A:なるべく京都に近く、海が深い所。それが福原でした。後の堺もこれにあたります。

「そして清盛と交易」その2
「瀬戸内海と清盛」。大きな船が航行するには、当時の瀬戸内海は危険でした。清盛は私財を投じて、瀬戸内の整備に乗り出します。厳島神社の造営、福原の建設、すべては安全な航海のために。

最後です。「そして清盛と交易」その3
「日宋貿易と銭」です。宋との取引により、新しい品物がもたらされました。薬、書籍、陶磁器。中でも注目すべきは大量の銭です。銭がもたらされることにより、日本列島に貨幣経済が根づいていきます。

Q:銭の価値をどうやって当時の人は認識していったのでしょうか?
A:それこそが大事です。平家の後ろ盾あってのことと考えます。

Q:銭が流通する前は物々交換だったんですか?
A:米や絹が通貨として用いられました。

Q:宋銭を大量に輸入するためには、なにかを輸出していたということですか?どうやって現金を手に入れるんですか?
A:砂金と硫黄です。

Q:日本でも元は貨幣が鋳造されていたのに、貨幣は廃れていたのでしょうか?
A:古代社会には銭は不要だったとしか考えられません。一度、鋳造を止めると朝廷は先例主義なので鋳造するという選択肢が失われました
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