感じる存在感
松山ケンイチ/チョンジフン(Rain(ピ))2人の若き才能ある俳優/歌手を応援しています
2013.8.29記述

平治の乱で藤原信頼、そして源義朝たちに追い詰められた信西入道は焼き討ちから逃れ、追討から逃れ逃れて、たどり着いたのが最期の地にもなる、宇治田原までやってきました。

遠そうで近そうなこの地に、日の暮れが早くなりかけているけれど行ってみようと思い、仕事が終わって一路目指す事にしました。 (実際は自宅から車で30分くらいで行ける事が分かりました)

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まず、平治の乱が12月9日に起こります。事前に不穏な気配を感じた信西入道は数名と自宅のあった姉小路西洞院通(A地点)から脱出します。ここから一体どのような経路で歩いてなのか馬などを使ったのかわかりませんが、最期の地となる宇治田原(B地点)まで敗走します。

小さい地図になりますが、大体こんな感じです。

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幾つもの山を超え、それも冬の寒い時、少しでもゆっくりしようものならすぐに義朝の追兵に追いつかれてしまうと思う恐怖にそうとう疲労困憊していた事と思います。

どこへ向かっていたのかわかりませんが、とりあえず自分の領地、そして清盛の助けを待つ為の時間稼ぎにと思っていたのかもしれませんが、やはり追兵の方が追いつくのが早いという事に覚悟して、この地に同行した者達に穴を掘らせてそこに入る事にしました。

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しかし結果的に12月13日に追討軍に見つかって首を討たれてしまいます。
かなり暗くなってしまったので写真が上手く撮影できなかったので、フラッシュを使用しました。
この場所自体、民家などもありますが、とても静かで殆ど人通りなんかもないし、車もあまり走ってないような場所です。街灯も殆どないので暗くなると怖いですマジで。

傍に建てられている説明板です。

宇治田原町指定文化財  信西入道塚
藤原信西(通憲)は平治元年(1159)年、源義朝らのクーデターを知り、田原の領地に逃げ込んだが追って来た源氏の軍兵に殺害される。 大道寺の領民は、この場所に塚を築いてその菩提を弔ったと言われている。
大正5年8月に、有志により供養塔が建てられ今に至る。

この有志による供養塔を建てられたと言う話には実は、すごい物語がありました。
それは、この信西入道塚に関する事を検索していた時に偶然、見つけたサイトなのですが、「株式会社伍魚福(ごぎょふく)代表取締役社長 山中勧(やまなかかん)ブログ」と言って、関西ではスーパーや酒屋さんに行くと珍味売り場などに必ずおいてあるのが伍魚福の珍味、そこの社長さんのブログ。

2012年7月21日のブログ「信西入道塚(京都府綴喜郡宇治田原町)の石碑に・・・」を読んでください。

読んでビックリ、すごい巡り合せだとおもいませんか?
この伍魚福の本社のお隣に平忠度さまの胴塚があるのですよ。昨年私も1度は見つけられなかった所。その後再びリベンジして無事見つける事が出来てお参りする事が出来ましたが、その時も忠度様の胴塚の隣に伍魚福の本社があるので驚きました(笑) この胴塚の看板の隣が伍魚福の建物です。

 
20121026平忠度胴塚001


その時の模様は「平家縁の場所を尋ねる③~福原・長田界隈~」をご覧ください。

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深い縁を感じずにはいられない物語が、現代にも繫がっているのですね。
そして、実際その場に行ってみると、ドラマでの穴からひっりぱり出された信西入道の場所は実際の場所と似ているんですよね。ロケ班が事前に行ってみたのか、その当時のイメージがそんな感じなだけなのかわかりませんが…。
ドラマでは生きた状態で引きずり出されておりますが、見つかる前に既に自刃したけれど、穴から出されたときまだ息をしていたらしく、そのまま首を討たれたとも言われております。

本当は近くに、信西入道の首洗いの池もあるようなのですが、暗くなっていたので今回は諦めて次回リベンジします。車とかがないと途中から山道を登ったり下ったりしなくちゃいけないので大変かもしれませんね。

交通アクセス
公共交通 近鉄「新田辺」、JR奈良線「宇治」、京阪「宇治」から京阪宇治バスで「維中前行き」「緑苑坂行き」「工業団地行き」に乗車、「維中前」又は「岩山」下車、徒歩約20分




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