感じる存在感
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平宗盛様の胴塚に行った後、そのままもう1つの目的地である『平重衡』様縁の場所に向かいました。
従三位平重衡卿墓』そして『首洗池』などです。安徳天皇と三種の神器を守る使命を全うできず、途中、家族も同然と思っていた乳母子盛長が自分をおいて逃げてしまうという悲しい裏切りなどもありました。そんな様々な失意の中で源氏に捕縛されてしまい、鎌倉へ送られ、最後は南都に行く途中で斬首されてしまった重衡様の最期の場所に行って来ました。

首洗池,・不成柿006

2013.10.3訪問

まず宗盛様の胴塚から一路京都へ。旧奈良街道を通って「京都市辰巳市営住宅」の2棟と5棟の周囲にある公園を目的地してに行かれるといいかもしれません。

伏見区醍醐外山街道町 (そとやまかいどうちょう)

閑静な住宅地の中にそのお墓と言われている墓石がありました。

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定期的にお花を供えられておられるようで、周囲は雑草に覆われていますが、定期的に綺麗にされているようです。

「従三位平重衡卿墓」の石碑が中央にあります。この地は、重衡様が捕縛され、鎌倉に送られた後、重衡の妻、輔子・佐局(すけのつぼね)が姉の邦子(大夫三位/だいぶざんみ)の住まいがあった、この場所にしばらく隠棲していたそうです。

そしてそんな時、鎌倉から重衡様が南都へ護送られてくるという話を聞いて、佐局は「ひょっとするとここで待っていたら重衡様に最後一目でもお会いできるかも知れない」と一縷の望みを抱いて待っておられたそうです。関係者にお願いをして(そこは重衡様の人徳もあったのでしょう)願いが叶って、再び、再会する事が出来た2人。この時、最後の別れにと、重衡様はご自分の髪の一部と上着その他を渡し、再び南都へ向かわれました。

そして、そこから一路、南都に向かいますが、生きて南都に行く事なく、木津の河原沿いで斬首される事となりました。

そこまでの経路は今とは違うかも知れませんが、でも実際これだけの距離を移動されたんだなと思いを馳せながら次の目的地へ向かいました。

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重衡様をどこで処刑するのか?どう処刑するのか?色々揉めたようです。市中引き回して斬首とか、土に首から下を埋めて斬首するとか、様々な案が出ましたが結果的に木津川で斬首する事に決まりました。


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その場所へ向かいましたが、これまた近くに来ているのに若干迷っているのか迷ってないのかわからくなってしまいまして…周辺をグルグル(車を停めておく場所含め)仕方ないのでまずは安福寺へ行きました。(結果的に最初向かったところでよかったのですが…)ひとまず安福寺に車を停めさせてもらい、丁度「首洗池」への地図も紹介されていたのでそれにしたがって向かいました。

首洗池,・不成柿009


昔ながらの平屋建ての長屋みたいな集落の端にその場所はありました。
そこに説明板がありました。

平重衡首洗池・不成柿(ならずがき)

平清盛の五男、平重衡は、治承4年(1180)12月28日、源氏に味方する東大寺・興福寺を焼き打ちしました。

その後、一ノ谷の戦いで言辞に敗れた重衡は、虜囚となって鎌倉の源頼朝のもとへ送られましたが、南都の衆徒のの強い引き渡し要求に頼朝も折れ、元暦2年(1185)6月23日、木津の地まで送られてきました。

南都の衆徒ほ、木津川の河原で、念仏を唱える重衡の首をはね、奈良の般若寺にさらしました。 その際、この池で首を洗い、持参したと伝えられています。その後、重衡を哀れんだ土地の人々は柿の木を植えましたが一向に実らず、このことから不成柿と称せられています。

国鉄(現在のJR)奈良線の東側にある安福寺には、重衡の引導仏といういわれをもつ阿弥陀如来を納めた哀堂と十三重の供養塔があります。

その重衡の首を洗ったといわれているのがこの首洗池です。が、見た目わからないですよね?(汗)

首洗池,・不成柿010


この手前の草むらというかシュとした葉が生い茂っている(雑草ではありません)周辺が実は池になっておりますが、見たとおり水は全く見えません。一応手前には、誤って池に落ちないように柵がしてあります。春先などに来ると、もう少し、水面が見えるかもしれませんが…。

首洗池,・不成柿002


現在は見ての通り、柿の実が沢山実っております。何度も接木などをして、長い年月をかけ、重衡様のお心も地元の人達や訪れる人達のおかげで安らぎを得られたのでしょうか。斬首される時に持っていたとされているのが、安福寺に安置されている(拝見しておりませんんが)阿弥陀如来像だそうです。最初、捕縛されたのち、一旦京へ幽閉されていた時に、法然上人と対面した折に受戒した場所、京都八条に現在建碑が立てられております

平重衡受戒之地



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ここは誰とっても行きやすい場所にあると思いますのでもし、京都へお越しの際には興味あれば言って見てください(まぁ写真の石碑があるだけなんですけど) 京都駅の八条口一体は平家のお屋敷があったとされる場所でした。

再び、安福寺へ戻ります。ここには上記にも紹介した阿弥陀如来像のほかに。重衡様の供養塔が建立されております。安福寺の門を入ってすぐ左側にあります。


安福寺001


安福寺:木津川市木津宮ノ裏274

石碑に「平重衡卿之墓」と彫られておりますが、こちらは供養塔ですね。弥勒菩薩像はこの寺の御本尊であられるそうです。

斬首された首は一旦、奈良の般若寺(とも言われております)に晒された後、再び佐局が遺骸と首を共に引き取り、日野の最初に行った、このお墓といわれている場所で荼毘にされたそうです。


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その後、御骨は高野山に埋葬されたそうで、こちらには墓を作ったとされています。
神戸・清盛隊の演舞の中で重衡様tが「三種の神器と安徳天皇はこの命に代えてもお守り下さりませ!」と。

これを聞くたびに切ない気持ちになります。というか、重衡様だけに限らず、宗盛様・知盛様・敦盛様それぞれの思い(もちろん、清盛様や重盛様の思いもですが)ドラマを見るまで、そして彼らを知るまで、私自身、ここまで平家の事を知る事は出来なかったと思いますし、平家物語だけを知っていては、本当の平家のしてきた事、平家の人達の事、そして頼朝の気持ちも感じる事もなかったんだろうなと。(平家物語は学校で勉強したけれど、内容よりも暗記のイメージしか記憶にないですね)


自分にとって「平清盛」というドラマは単なる大河ドラマではなく、そこに生きていた人達(平家・源氏、摂関家、当時の皇族など)の様々な事を改めて苦手だった私に、興味深く学ばせてくれたきっかけをくれた作品でもあるんだなとつくづく思います。重衡様が一ノ谷で初めて負け戦を経験して、そして、敗走中、逃げ場もなくなり、挙句に家族と思っていた人達の裏切りで戦意喪失してしまった事。源氏に捕まっても、行く先々の民たちが重衡様を慕って見送ってくれ、紆余曲折の中、鎌倉で頼朝と会ってからも、その人望に政子さま共々、大切にしてくださり、最後の最後まで南都の訴えを何とか拒めないかとされた事を聞くと、切なくも、やはり清盛の息子として潔く自分のやるべき事をやってた人なんだなと、宗盛様同様、愛おしい人だと、ますます平家に対する思いが深くなりました(笑)

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