感じる存在感
松山ケンイチ/チョンジフン(Rain(ピ))2人の若き才能ある俳優/歌手を応援しています
2014.4.9記述
キネマ旬報2014年4月下旬号より

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久保田直の『家路』では、なにより松山ケンイチが随所で浮かべる微笑が印象深い。
例えば彼がひとり暮らす農家で、訪れた同級生と一緒に食事をするシーン。そこは彼の生まれ育った家ではあるが、福島の原発事故で立ち入り禁止になり、電気も水道も止められている。食事のシーンは二度あって、ロウソクの灯りのもと、松山ケンイチは同級生の山中崇に言葉少なく応じながら、かすかにほほえむのだが、うっすら見えるか見えないかであるため、微笑が不思議な力を感じさせる。二度目の場面では、ほとんど無言のまま食べつづける顔のほほえみが、いっそうの強度で迫ってくる。

彼は次男で、少年時に離れた故郷へ二十年ぶりに帰ってきて、そこに住み始めた。仮設住宅で暮らす実母や異母兄とその妻子には連絡もしない。農家にあったコメや漬け物を食べ、畑を耕し、母のしてきたように種籾を選別し稲の苗を育てる。そのように生きることを選んだ覚悟が、ほほえみの底にあるのであろうか。

映画ではそんな彼の日々と交互に、農家を奪われ苛立つ長男の内野聖陽、風俗業の仕事を再開した妻の安藤サクラ、幼い娘、そして義理の息子たちに遠慮する母の田中裕子と、仮設住宅で暮らす一家を描く。次男と長男のシーンは、全篇のほぼ四分の一ほども別個のまま進む。常識外れの構成だが、分断家族の悲哀が鮮やかに浮かび上がる。テレビドキュメンタリーのベテランの劇映画第一作で、いかにも社会派的になることを避けたのか、淡々とした調子に終始して、逆に描写の力を弱め、いっぽうで不必要な長回しをするなど、技法的意識が目につく。

それでも、現実を踏まえた虚構としての力は明らかで、松山ケンイチの微笑がその証左にほかならない。脚本は青木研次。

二つの家族は交点を持つが、次男は認知症の始まった母とともに農家へ戻る。
そのとき、松山ケンイチも、その背に負われた田中裕子も、同じ微笑を浮かべている。彼は同級生から、ゆっくり自殺するようなものではないかと言われ、肯定も否定もしなかった。母と二人で田植えをする姿は、その返答といえるが、自然とともに生きるという覚悟を示すそこには、明らかに死の要素が取り込まれている。ほほえみに滲む不可解さは、そのことと関わるにちがいない。

松山ケンイチの微笑は、だからこそ映画の肉体としての強度を放つ。そしてそのあり方は不可解さを介して『不気味なものの肌に触れる』に通じている。

「家路」の他にもさまざまな作品に対して書かれていますが、ここはあえて「家路」の部分だけをピックアップしました。
映画の中の次郎は終始、嬉しそうなんですよね(私はそう感じました)東京での生活もそれなりにはしていたのかも知れないけれど、中学卒業してからどこかに就職と言ってもあてもなかっただろうし、苦労を沢山したことでしょう。息苦しいくて出て行ったふるさとが原発によって戻れる場所になった。それが結果的に死を意味することだとしても、東京にいても既に死んでいるようなものなのであればという思いが彼の中にあったのだろうか?

あの穏やかな表情は見るものにどんな事を感じさせてくれるのか、なかなか良い批評だなと思い紹介しました。

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