感じる存在感
松山ケンイチ/チョンジフン(Rain(ピ))2人の若き才能ある俳優/歌手を応援しています
2014.9.29記述
ベテラン記者のデイリーコラム・渡部裕明の奇人礼讃より

原文はこちら
PDVD_256_20140929123647dd9.jpg


 「平家にあらずんば人にあらず」という、だれもが知っているセリフ。平清盛率いる平氏政権の全盛期、その驕慢(きょうまん)さを象徴する言葉である。しかし、口にしたのは清盛でも、彼の息子たちでもない。清盛の妻・時子の弟、平時忠(ときただ、1130~1189年)という人物である。「虎の威を借りた」傲岸不遜な男とみられがちだが、どっこいこの時忠、実は切れ者だった。清盛も頼りにした義弟の生き方を今回はみてみたい。


「実務官僚」として出発

 この言葉は、『平家物語』の巻1「禿髪(かぶろ)」の段に出てくる。正確には

 《この一門にあらざらむ人は皆、人非人(にんぴにん)なるべし》 である。

 人非人とは仏教用語で、「人間に似た形をしているが、人間ではない者」といった意味である。平氏全盛期、朝廷の主だった役職が平氏一門と親しい貴族によって占められていたことから、大納言時忠が言い放った、と平家物語は書く。

 この時忠、同じ「平」の姓だが、清盛とは系統が異なる。桓武天皇の第3皇子・葛原(かづはら)親王から高見王、高望王(たかもちおう)と続く系統が清盛ら武人平氏。一方の時忠は、葛原親王の子・高棟王(たかむねおう)に始まる文人(事務官僚)系平氏である。

 平安時代後期になると、この系統はふるわず、昇進も四、五位にとどまる中下級貴族となっていた。時忠の父親・時信(ときのぶ)も、兵部省(ひょうぶしょう)の2等官(兵部権大輔=ひょうぶごんのだいぶ)で、五位どまりでしかなかった。

 しかし、こうした「身分の壁」が崩れるのが、乱世という時代である。時忠も鳥羽上皇の院政下で実務能力を認められた。幸運だったのは、同母姉の時子が清盛の後妻に迎えられ、清盛が異例の出世を遂げたことである。さらには、異母妹の滋子が後白河上皇の寵(ちょう)を得たばかりか、皇子(憲仁親王、のちの高倉天皇)を生んだことだった。女姉妹の存在が彼を助けたのである。

義兄清盛に認められる


 保元元(1156)年7月に起きた「保元の乱」は、天皇家と摂関家がそれぞれ分裂して争い、「武者(ムサ)の世」(慈円)の幕開けを告げることとなった内乱である。崇徳(すとく)上皇と後白河天皇、藤原忠実・頼長と藤原忠通(ただみち)が対立し、武門の平氏と源氏も分裂して戦った。その勝者となった清盛が、政界で一気に力をつけた戦いでもあった。

 時子が清盛と結婚したのは、これより早く久安元(1145)年ごろと考えられている。4歳年長の時子は同じ母親から生まれた時忠をかわいがり、清盛に出世のための助力を頼んだに違いない。時忠自身も聡明(そうめい)で実務能力にたけ、清盛のメガネにかなう男だったようだ。

 平氏は武人集団としての人材がそろい、抗争を繰り返した源氏に比べ結束も固かったが、朝廷内のしきたりや実務に詳しい人間がいなかった。時忠は姻族ではありながら、清盛の数多い子供たちの中にあって、参謀のような立場にのぼりつめていったのである。

 彼のすぐれた実務能力を物語る事績は、多々ある。検非違使別当(けびいしのべっとう、都の治安担当の長官)を、3度にわたって務めたのは例がない。また、天皇の秘書役である五位蔵人(くろうど)と太政官の行政事務を担当する弁官、それに司法官の検非違使佐(すけ)の3つのポストを兼ねる「三事兼帯(さんじけんたい)」を実現した人物としても、名を残している。とびっきりの能吏だったのだ。

 検非違使別当だった時代、盗賊12人の腕を切り取って見せしめにしたエピソードも残っている。事務能力だけでなく、理非を区別する峻烈さ、胆力も備わっていたようである。


壇ノ浦では「捕虜」に

 しかし一方で、時忠には思慮に欠け、軽率な面もあったようだ。権力から遠い人間なら、それも愛嬌(あいきょう)と許されるのだろうが、彼のバックには清盛が、そして甥(おい)にあたる高倉天皇がいた。「人非人」発言が実際にあったかどうかは不明だが、反感を買うような言動があったことは、間違いないのだろう。

 養和元(1181)年閏(うるう)2月、一門を支え続けた清盛が64歳で亡くなった。平氏の舵取りは次男・宗盛に委ねられたが、政治家としての器量は清盛には及びもつかなかった。各地で源氏が蜂起し、後白河法皇にも見捨てられ、2年後には平氏一門は「都落ち」を迫られてしまう。

 時忠はどんな思いで、西海を漂っていたのだろう。追討軍である源氏との和睦の道が彼の頭になかったはずはない。しかし、木曽義仲を破って源氏の棟梁(とうりょう)争いを制した源頼朝は、後白河法皇とも提携して平氏を追い詰めていった。

 文治元(1185)年3月、最後の決戦が長門・壇ノ浦で行われた。天才的な戦略家、源義経の活躍もあって、平氏は次第に追い詰められていった。

 「波の下にも都のさぶろうぞ(都はありますよ)」

 幼い安徳天皇をこう諭して、時子は波間に消えた。知盛(とももり)ら多くの武将も従った。しかし、文官である時忠は死ぬことができない。捕虜となり、都に送還されたのだった。

 宗盛ら捕らえられた平氏はその後、斬刑に処されている。果たした役割からいって、時忠も重罪は免れない。このピンチを、どうやって切り抜けたらいいのだろう…。時忠の決断が問われていた。
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
URL :
コメント :
パスワード :
管理者にだけ表示を許可する
 
Template designed by アクセラと+αな生活(ホノミ)

Powered by .