感じる存在感
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2014.9.29記述
ベテラン記者のデイリーコラム・渡部裕明の奇人礼讃より

原文はこちら

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「平家にあらずんば人にあらず」と高言して世の顰蹙(ひんしゅく)を買い、その報いを受けるかのように壇ノ浦で捕らわれた平清盛の義弟、平時忠(ときただ、1130~1189年)。失意のうちに、京都へ送還された。彼の処分について、朝廷周辺の空気は「斬刑(ざんけい)やむなし」だったが、逆境に強いのがこの男の真骨頂だ。権謀術数の限りを尽くし、自らの「助命」に成功したのである。



宗盛も重衡も斬刑に


 寿永4(1185)年4月26日。時忠とその嫡男・時実(ときざね)は、「罪人」として都大路を引き回された。そして、源義経の屋敷に監禁されたのだった。3月24日の壇ノ浦での敗戦から、すでに1カ月が経過していたが、時忠父子らに対する処分は決まらなかった。

 とはいえ、生き残った平氏一門への風当たりは極めて厳しかった。総大将の平宗盛と清宗(きよむね)父子はこの年5月、鎌倉の源頼朝のもとに送られた。そして再び京に戻される途中、2人とも近江篠原(滋賀県野洲市)で斬られている。宗盛39歳、清宗にいたっては16歳だった。2人の首級は都まで運ばれ、獄門にさらされた。

 さらに前年2月の「一の谷の戦い」で捕虜となっていた宗盛の弟・重衡(しげひら)も、6月には南都(奈良)の僧兵に身柄を渡された。重衡は「東大寺大仏や興福寺を焼いた張本人」として、強く引き渡しが求められていたのだ。重衡は木津河畔(京都府木津川市)で、数千人の群集が見守る中、念仏を唱えながら死んでいった。

 罪状からいえば、時忠も同じ運命となっても仕方がないものだった。清盛亡き後、「平氏の参謀役」を果たしていたからだ。しかし、時忠は後白河法皇に対して2項目を挙げて助命を求めている。

 その主張の1つは、「自分は公家であって、武士ではない」というものである。確かに、時忠は清盛らのような武人平氏ではなく、長年、文人官僚として朝廷に仕えてきた。文官の死罪は、大同4(809)年の「薬子(くすこ)の乱」の藤原仲成(なかなり)以来、行われていないことを根拠としたのだ。

 もう1点は、平氏都落ち後の長い混乱の中で、自分こそが三種の神器を守ってきたという主張である。実際は、宝剣が壇ノ浦に沈んでしまったのだが、「神鏡などが失われなかったのは、これらの大切さを知り尽くして守った私の功績」と売り込んだのだった。


義経には娘を差し出す

 さらに、時忠は「二の矢」も継いでいた。自分の娘の一人を、義経に差し出したのである。このころの義経は、まだ頼朝との関係は悪くなく、京都での「頼朝の代官」の役割を果たしていた。後白河法皇からの信頼も絶大だった。義経には、頼朝の口利きで結婚したばかりの河越重頼の娘が正室として京にいたが、時忠からの申し出を喜んで受け入れた。このあたりに、義経の政治家としての不用意さ、未熟さも見てとれる。

 京都入りから約1カ月後の5月20日、ようやく朝廷の処分が出た。必死の工作が奏功したのだろう、時忠は死罪のところ、刑一等を減じられ、能登国(石川県北部)への配流と決まった。36歳の息子、時実は周防国(山口県東部)に流されることとなった。

 それでも、配流はなかなか実行に移されなかった。時忠の婿となった義経の遠慮もあったのだろう。しかし、頼朝は遅延を厳しく責めた。それとともに、自分の指示に従わない義経を疑い、警戒を強め始めたのだった。

 結局、時忠が能登に向けて出発したのは9月23日のことだった。家族の帯同は許されず、わずかな従者がいただけだったようである。

 日本海に長靴のような形で着き出した能登半島。地図で見るのに比べ、実際に旅すると、その広大さが身にしみて分かる。しかも、配所が置かれたのは珠洲郡(すずぐん)、つまり半島の最北端、日本海の荒波が押し寄せる地である。さすがの時忠も、敗者のつらさを感じたのではないだろうか。


頼朝にも一目置かせる


 それでも、時忠に「希望」はあった。この時期、何年か経過すれば、罪人が許されて都に戻ることは珍しくなかったからである。能登国の国司が時忠に好意的な藤原顕家(あきいえ)だったことも幸運だったし、配所が思ったより整っていたことも、彼を安堵(あんど)させた。
 一方で、頼朝の「厳しい目」を感じることもあった。珠洲郡の西に隣接した鳳至郡(ふげしぐん)にある荘園・大屋荘の地頭に、反平氏の急進派で武勇をうたわれた長谷部信連(のぶつら)が任じられたからである。まさに、時忠への「監視役」だったのだ。

 能登の厳しい冬を、時忠は3度、くぐり抜けた。その間、赦免の知らせを待ち続けたが、届くことはなかった。

 文治5(1189)年2月24日、時忠はあの世に旅立った。60歳であった。皮肉なことにこの年、頼朝は平泉の奥州藤原氏を滅ぼし、東国の覇権を確立している。

 鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、時忠死去の知らせを聞いた頼朝がもらした言葉を、次のように伝えている。

 「智臣の誉れあるによりて、先帝(安徳天皇)の朝(ちょう)、諸事を補佐す。朝廷のために惜しむべきか…」

 時忠はその姉妹(清盛の妻・平時子、後白河法皇の寵妃・建春門院)の縁によって、出世の糸口をつかめた。官僚としての実務能力を法皇や清盛に認められ、平氏の全盛期を体験することもできた。そして、あの頼朝にも一目置かせたのである。晩年は不自由な配流生活だったが、人生の起伏としてはそれも味わいのあるものだったのではないか。

 息子の一人、時家は上総国(千葉県南部)に流されたものの頼朝に気に入られ、仕官して鎌倉で没した。娘の一人は後鳥羽上皇の後宮に入っている。「血筋が絶えた」清盛一門とは違って、その血は後世に伝わったのである。幸せといっていいだろう。

これはまったくの余談だが、能登地方には「時忠の子孫」と伝える家がいまも残っている。輪島市の時国(ときくに)家や、珠洲市の則貞(のりさだ)家だ。いずれも豪壮な建物や庭園、調度などを所有し、伝承を信じてもいいという気分にさせるものがある。

実際のところ、時忠がどんな人物だったのかと言うのは分かりません。
でも、単に自分よがりの人間だったのかと言えば総出はなかったと思うんです。それは大河ドラマの影響もあるのかもしれないけれど、自己保身のために生き延びたわけではないのではと思うんです。それは頼盛様と共通するものがあるのではないかと。平家の血をどんな形であれ残そうとされたのでは。それは清盛が常日頃言っていた「平家は一蓮托生」その思いを時忠なりに引き継いで以降としたのではと。周囲から色々非難される事、多かったでしょうし、楽しいばかりの人生ではなかったかも知れないけれど、それでもそれを引き受け生きて行こうとされたんじゃないかと、私は思いたいんです。


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