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2009.10.7読売新聞文化面より (私の気になる部分だけをご紹介していますので全文ではありません)

9年ぶりに短期連載中の「カムイ外伝」
連載1007読売新聞

 

【映画化や連載再開】

崔洋一監督の映画「カムイ外伝」が9月中旬に封切られた。
昨年は拙著「カムイ伝講義」が刊行されている。

私はこの全集を使って「カムイ伝」を講義したのだ。
そもそも「カムイ伝」は1964年に始まった連載であった。それから40年以上を経て、なぜこのような動きが起こったのだろうか。

2つの理由がある、と私は思っている。
1つは、はっきり目に見えるようになった格差の存在である。
それはかつてあって、高度経済成長以後の日本には潜んでいるかのように思えた。
しかし本当になかったのだろうか?
何もかもが「自己責任」と言われ、努力しさえすれば何にでもなれる、だから前向きに生きよう、と言ってきたが、本当だろうか?

自らの身にふりかかり、ようやく格差も差別も不自由も、隠されていただけかもしれない、と気づくようになったのだと思う

「カムイ伝」は武士、農民、被差別民、あらゆる階層の内側に格差が存在し、しかしそれでもなお、それを克服すべく生き抜いている人々の物語である。

カムイはその象徴だが、差別構造の外に出られないまま流浪し、「自由」に命を懸けている。
不自由と格差の象徴である組織に追われながら、社会の最底辺から社会を眺め渡し、戦い続けている。
その流浪の物語が「カムイ外伝」なのだ。

再開された「カムイ外伝」には、派遣ならぬ渡り衆が描かれている。白土三平は、人の生業とその誇りを描く天才だ。これからこの物語がどう展開するか、今の世のリアリズムとどうかかわるのか、楽しみだ。

2つ目の理由は、「命」についての感覚と観念の喪失に、気づき始めたことだと思う。
今年の8月10日、南房総にある白土三平さんのお宅で崔監督と3人で話していた時のことである。
白土さんは、「子供のころは山へ行けばキノコ採り。川へ行けば魚捕って泳いで遊ぶ。自分でウサギを捕って捌いて食っていた」とおっしゃった。

しかし動物を捌くシーンを劇画で表現したら、PTAに非難されたという。
そのような自然と深く関わった人間の生活は、1960年代の高度経済成長とともに遠ざかっていたのである。そして水俣を皮切りに、地球全体の環境汚染が始まった。

生きている人間と自然の現実をみつめること。そこが全ての出発点なのである。
この姿勢が今ほど必要な時代ではないであろう。
「命」は観念ではなく、抽象的なものでもなく、私でありあなたなのだ。

60年代、70年代に学生時代を生きた人々が定年を迎える時代に入った。
私も含め、多くの人口を占めるこの世代が、おこなってきた仕事の功罪を考え始めている。
政権交代はそれと無縁ではない。

未だ乗り越えていないこと、もう一度とりもどすべきこと、それを真摯に思考しはじめたことこそ「カムイ伝」現象なのである。

田中優子先生

 この文字起こしをしていると無性にカムイに会いたくなってきて思わず6回目の鑑賞してきちゃった(汗)
ビックコミックの連載も立ち読み(ごめんなさい)で楽しみにして読んでいるんだけど、今回はカムイの幼なじみでもある伊児奈がメインででてきていて(以前の話を知らないんだけども)どんな話が展開するのか楽しみにしています。

このコラムと先日の崔監督のコラムを読んで感じたのは先日一部の人に話したんだけど、「キネマ旬報」10月上旬号の中で塩田時敏さんの崔監督のインタビューの中の言葉を思い出すんです。

今、娯楽映画の幅は物凄く狭くなっていますからね。泣けるか?感動できるか?が第一基準。役者は誰?が第二基準。で、媒体はどこがつくの?が第三基準。そのコングロマリット(業種・業務面で関係をもたない企業間の合併を通じて成長した複合企業体。複合企業。)なんです。それは映画製作がヘゲモニー(指導的な地位。支配権。主導権)を失っている一ページに過ぎないんですが、それを憂いたり批判するのは簡単。そうではなくて、我々の持てる土壌の中で幅を広げるという意味で僕が「カムイ外伝」をやったことは大正解だったともいます。

今現在の日本映画界で、それを成立させるとしたら主観だけじゃ動かないよ。じゃ予算はどこから出るの?じゃ、身分制度を描く上で、様々に規制されていると思われている用語はどうするの?と。階級社会を描くってことが日本の観客にとって、ハードなのかリーズナブルなのかって観点もあるでしょうし。早い話が、メジャー会社は避けて通りたいですよ。こういうテーマは。テレビ局なんかつくはずもない。でもそれは僕によるところもおおきいようで"監督どなたですか?"崔洋一です"ヤメます"なんて(笑)

単純にあのコラムで反論したわけではなく、そのもっと上にある今の日本映画における存在が色んなテレビ会社などのしがらみなどで表現したくてもできなかったり、自由に作品作りができなかったりすることで映画業界が衰退していくことを懸念してのあの発言だったんだと私は考えています。

レビューの中でも「カムイがなぜああなったのかという肝心の部分が薄い」と書かれる方もいますがそれもやはりいまの日本がそういう言葉などに過剰な位に敏感になり過ぎているためなのでしょう。
動物を殺すと動物愛護協会から抗議が来たり、障害者などが虐げられるとそういう団体から抗議が来たり、言葉の表現にしても「差別用語」だと言われNGになったり自由なようで実はとても不自由な世の中になってしまっている現代の映画・ドラマの現状…。

それこそ、いろんな人が言うように「いちいち反応せず、ほっておけばいい」とか「大人げない」と言われようともそれこそカムイではないけれど目を背けるんじゃなく、発言をする選択をしたんだと思います。それはとても勇気のいることだし、批判されることも覚悟だろうけれど、いつ誰かが言ってくれるのを待つことはカムイを裏切ることになるから…

現代の世相と作品の持つメッセージ性なぜ今カムイや銭ゲバ、そしてノルウェイの森(これは作品の時代が1960-70年代)という作品が映像化(映画・ドラマ)されるのか…

目をそむけていたつけが回ってきたのかもしれないし、そして松山ケンイチというそれらを体現してくれる人間が出てくるのを静かに待ち続けた結果なのかもしれない(笑)

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コメント
この記事へのコメント
カムイの鑑賞方法
カムイ外伝を娯楽映画として一見して通り過ぎていいものではない。映画としての出来不出来以上にカムイが放った矢がさざ波のように社会に波紋を投げてほしかった。
カムイを題材にすること自体がどんなに大きな挑戦と覚悟が必要だったかを思うと、やはり崔監督の並々ならない情熱でもってしても困難であったと思う。
原作を壊さず娯楽映画として成立させること。
カムイのネオファンも子供から大人男女みな満足させようとすると、どっかで破綻してしまう危険性は最初から予想できた。でもやらなければ、いまカムイを世に出さなければ、という使命感があったのだと思う。
ジェットコースターのようにだまって乗れば、ラストまで何も考えずにワクワクはらはらさせられて、泣いたり笑ったりして最後はスカッとして到着、という娯楽映画に慣れ親しんできた観客には、カムイには違和感を感じるかもしれない。主人公はヒーローではないし、決着のないまま逃げ続けるでは、観たあとにカタルシスを得られないこと確か。
でもだからといってこの映画を駄作だと決め付けてほしくない。読めない漢字だらけの本だからと途中で放り出さずに辞書をひいて意味を調べてみればいいのだ。1800円出して観るんだからその分は楽しませて奉仕せよという態度ではいつまでも映画は娯楽から抜け出すことは出来ないだろう。
2009/10/09(金) 00:06 | URL | コップニ #-[編集]
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