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感じる存在感
松山ケンイチ/チョンジフン(Rain(ピ))2人の若き才能ある俳優/歌手を応援しています
ぴあ2010.1.7号
「RAIN in to the wild 見つめる未来」より

ぴあ001

 

想像してみてほしい。東洋人としてハリウッド映画に主演し、しかも、興行的に成功を収めることを。

体脂肪率0%。身体に必要な水分以外、体内には水分は残っていない筋肉だけの肉体改造して挑んだハリウッド主演作『NINJA ASSASIN(原題)』。「顔は無理だけど、身体は変えることができる」と平然と言いのけ、1日8時間の筋力増強とアクショントレーニング、そして極端な食事制限を8か月続けて生み出したその肉体は、もやは格闘家やアスリートの体型に近い。激しくも美しいその肢体の躍動はスクリーンで芸術にまで昇華される。

「歌手として欧米で成功することは本当に難しいことをここ数年で実感しました。ネイティブではないということの壁…。でも俳優は少し違います。アメリカでは俳優がエンターテイメント市場の花であり、映画は文化、またはストリートの面白さがものをいう。だから僕は、まずは俳優として掴んだチャンスをものにして、それをアーティストとしての世界への足がかりにしたかったんです。そこで考えたのが『NINJA…』において僕が何を求められているのか?それは韓国人としての顔立ち、韓国人として育んだアイデンティティ、そんな僕が生きてきた環境と文化。これは同時に僕の武器であり、自分の”身体”を通して伝えられることだったんです

顔はともかく…(笑)
確かにケンイチも世界で活躍しているモデルなどの最近よくインタビューの中でも、世界に自国の文化を伝えたいという人が多いです。でも実際、海外に出たとしても日本人の俳優にしても外国の人たちから「日本らしさ」とか「日本の文化」と聞かれたり、他の国の文化を見たときに感じられる「日本人としてのアイデンティティ」についてや「自分は日本人なのに日本について何も語れない、表現することができない、伝えることができない」と思うそうです。だから世界で仕事をしていこうと思うとき、語学はもちろん必要だけど、それ以上にきっと日本人としてどう日本の文化や日本の良さを自らそばにいる海外の人たちに伝えることができるのかということを考えると。

そう思うとRainは本当に一部の日本人から見ると「何かにつけて韓国という」とか「自分の国の自慢をする」、「映画に韓国も持ち込む」とか言うけれど、私はそれが決して悪いことではないと思う。間違った母国の文化や認識を正しく伝えることは悪いことではないし、それができるということはとても凄いことだし素晴らしいことだと思う。そういう1人のささやかなことが少しずつ色んな人に伝わっていくことだから、本当にRainのインタビューを読むとそのケンイチをはじめ、日本人俳優や海外で生活をする日本人の人たちの考えを実践しているRainは凄いなと思うばかりです。(なかなかできそうでできるものではないと思います)

「孤独感は、デビュー前から今日まで常に持っているものです。なぜなら僕は成長や成功に常に飢えているから。それを得るには、最高と最善がいつも同じラインにあるわけではないと理解した上で、最善を尽くすしかない。これは、何かを捨てなければ得るものは得られないということです。そういった点では確かに僕の境遇とライゾーの境遇は似ていました。悲しい過去を持つがために誰よりも愛情に飢えている…。いままで3本の映画に出演して学んだことは、演技表現というものは、意図して出てくるものではなく、僕がその役柄に没頭することで、自然に現われてくるものだということ。だから今回の場合は、感情面でリンクすることが多く、あまりにもうまく作用したんだとおもいます。だからこそ、僕には演技の年輪がまだまだ足りないことも実感しました。どんな役柄にもナチュラルさを出してこそ、演技に深みが出るんだと思います。」

どんな役柄にもナチュラルさを出してこそ演技に深みが出る…はぁ~この言葉を聞くとつくづくケンイチってすごい役者だなと感じずにはおられません。きっと俳優という職業をしている人たちは皆そうありたいと思ってそのキャラクターを演じているんだと思います。でも実際観ている側にすると「演技が上手い=ナチュラル」とは違う場合は多々あるし、ナチュラルさというのはどういうことなのかということを考えるとこれまた難しく一言でいうことができなかったりする。

でも、どんなありえない設定、キャラクターにせよ、見ている側の人間があり得ないと知りながらも納得してしまう、それって嘘なんだけどその嘘が嘘に見えないということがナチュラルということなんじゃないかなと、だからケンイチの作品を見ても「そんなこと…ありえない」はずなのに「…ありだな」となってしまう(そう思ってしまい納得できてしまう自分が滑稽に感じられることもある訳で)、それが不思議と成立してしまうんですよね。

とはいえ、アジア人離れした身体能力から生まれるリアルな表現は、唯一無二の存在としか言い得ない。なにせ『Vフォー・ヴェンデッタ』で知られるジェームズ・マクディアン監督から「死ぬと思ったら止めていい」と冗談のようなありえないことを言われ、殺戮描写に次ぐ殺戮描写の90%以上をノースタントでこなしたという。

監督…(@_@;)死ぬと思ったらって…ブラックすぎます(汗)本当にやっちゃいますからね下手すると。
多分、監督も言ってから慌てたことでしょう「やべ、本当に死ぬまでやめんぞこいつ」ってね(笑)

CG全盛のいま、ここまで生身感を打ち出したアクション映画は少ない。アメリカメディアが、ブルース・リーの再来と囃し立てる理由がそこにある。「ブルース・リーやジャッキー・チェンが持つ華ではなく、より”キレ”のあるアクションを目指した」という鋭く苛烈な肉弾アクションを目の当たりにすると、ジェット・リーやトニー・ジャーにも勝るとも劣らない。

「残忍で激しくなければ普通の武侠映画でしかない、そういって(プロデューサーの)ウォシャウスキーが10年間温めてきた企画です。そんな極致的な映画のアクションは、やはり一朝一夕でできるものではありませんでした。数百回の練習と試行錯誤を通して生まれてくるもの。また、アクションとは映画に携わる全ての人たちの力によって作り上げられる、映画にとっても最も包括的で集約的な装置であると分かりました

「カムイ外伝」という作品に取り組むとき、崔洋一監督が「カムイを演じられるのは松山ケンイチしかいない、彼がこの作品に出演してくれないのならこの作品は作れないから作らない」と固い決意を持ったのと同じように、長年ウォシャウスキー兄弟がライゾーを演じれる俳優を待ち続けた結果、Rainと出会うこともやはり同じことなんだろうなと。

そしてケンイチがRainと同じように抜忍カムイを演じて感じた事も「アクションも演技なんだと、アクションは全ての人と呼吸を合わせないと演じることができないものだということがわかった」と。アクションや作品を比較しても仕方ないけれど、同じ時期に同じようなキャラクターを演じた2人が同じようなことを感じたということの不思議な感覚を知ることのできる私は他の人たちよりも幸せ者だとまた思うのです。

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