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感じる存在感
松山ケンイチ/チョンジフン(Rain(ピ))2人の若き才能ある俳優/歌手を応援しています
2010・5・7記述
CREA6月号より



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いつものやり方にしていったら、いつもの日本映画にしかならない。
村上さんが文壇に登場した時、あの翻訳調の文体は文学じゃないと言われたわけです。でも、あれこそ僕らの世代の文学だったし、ユニバーサルなものだった。

「誰キス」にしてもそうだし、今月号のダ・ヴィンチの奥浩哉先生のインタビューの中でもそうだけど、日本映画なんだけど目指している場所は決して日本映画という枠ではないんですよね。「誰キス」を見た人の中にも会話がまるで翻訳調だと言って違和感を感じたという人もいたけれど、気になるという人たちの言葉の方が気になった(笑)この程度で違和感があるとか言っていると「ノルウェイの森」も同じように違和感を感じるのだろうか?そもそも文学なんてそんなものだと思うんですよね。今に言われているわけではないですもんね。実際、現代でも普遍的に読まれている文豪の作品も当時は色々言われていたと思います。

言葉に対しても、「誰キス」に関してもさほど違和感は感じなかったです。
「ノルウェイの森」も小説を読んでいるからかもしれないけれど、もし背景は1969年なのに会話が現代風だとかえって映画を見っての違和感を感じてしまうかもしれません。あとは奇麗な日本語をわれわれ日本人がすでに聞きなれなくなってしまったからなのかもしれません。やはりワタナベ、直子、緑などそれぞれのキャラクターにとって言葉は大切な部分だと思うんですよね。だからケンイチも撮影しながら原作のセリフにということを言ったのかもしれません。

同じように、今までの日本映画にない新しいルックを、日本と海外のスタッフが協力して作るんだと。
そうでなければ『ノルウェイの森』にならないと思ったんです。

これからの日本映画のあり方を「誰キス」も「ノルウェイの森」も指示しているのかもしれません。
作品を見る日本の観客も単なる違和感を感じていては世界の人たちから取り残されてしまうかもしれません。
日本にこびることもないしハリウッドにこびることもない、それこそグローバルな視点を作る側も見る側も持たなければよりよい作品を作っていくことって出来ないんじゃないかと思うんです。もっと作品を見る観客も成熟していかなければならないなって。

いいものができたという感覚はあるが、村上とかわしたある"約束"のため、小川はずっとプレッシャーを感じ続けている。
村上さんが映画化を許諾したということは、僕らがちゃんとしあ映画を作ってくれるだろうと信頼してくれたからだと思うんです。
でもそれは契約書にはない、一番重い約束です。ご本人に観せても大丈夫という手応えは感じていますが、実際に観てもらうまで、なかなか落ち着きませんよね。(笑)

そうだよねぇ~村上さんが大切にしていた作品を映画化できるということ自体かなりのプレッシャーだろうし、だからこそ大切に作りたいと思って挑んだ作品ですから。私もぜひ村上さんが本編を見た感想を聞いてみたいです。
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